南信州高森町吉田地区は、天竜川により形成された沖積氾濫原と
その上段台地にわたり立地します。
吉田という地籍名が示す通り、
扇状地先端の水利に恵まれた豊かな稲作地帯として住み継がれてきました。
高森町には40棟の「本棟造民家」が残っていますが、
今回訪れた吉田地区の一角には
「本棟造民家」8棟
「養蚕民家」3棟が集約的に存在します。

吉田日影・広路地区 民家の現況分布図です。
今年で9回目になる地元[NPO山法師]と、都心部の皆さんによる
地域探訪「南信州フォーラム」が当吉田地区で開催され
民家に想いを寄せる20余名の皆さんが
希少な「民家探訪」を体験しました。

養蚕業の母屋、文庫・穀蔵・養蚕長屋を配した、典型的な
「養蚕民家」の配置形態です。
母屋の2階部が間口6間とやや小振りな民家 【これ我が家です】
東面を向いた母屋と文庫・穀蔵・養蚕長屋を配した民家が、
適度な間合いを保ちつつ点在し、独自の
農村原風景を醸し出しています。
これは天竜川が形成した河岸段丘に沿い主街道が開かれ、
それに直交する道に沿って民家が分布し
、
自然発生的に格子状の集落が生まれた結果と言えます。

間口8間の「本棟造民家」, 各土蔵・門構え等、
19Cの建築状態を維持しています。
現在の大量消費経済により国内の住宅平均寿命は30数年
といわれる中、これは
特筆すべき事実です。

小路にひっそりと、ひとつの石に三十三観音が刻まれた観音様が立っています。
ここだけで
三十三所観音が拝めるという発想らしく、
全国的にも大変希少との事。

こんもりと盛られたなまこ壁・・・こんなに上手な
左官屋さんは今や壊滅状態。
「姫路城」の瓦屋根が白いと話題になっていますが、
これを屋根に施せば白く見えて当然、・・・・強烈な台風に耐える
沖縄の赤瓦も同様ですが。
当地域は主産業が稲作から明治初期からの養蚕業、
戦後の果樹栽培、現在盛況の柿栽培へと移り変わる中、
「本棟造民家」の「養蚕民家」への
変遷過程がよく解る地域でもあります。
希少な「養蚕民家平屋建」,間口9間の巨大な「養蚕民家2階建」も、
幾度かの改修工事を経ながら住み継がれています。

これは珍しい平屋建ての「養蚕民家」です。
階高も高く、
夏季の通風を考慮した大きな欄間が特徴です。

間口9間の巨大な「養蚕民家2階建」、2階の蚕飼育環境を
居室に改修し
住み継がれてきました。
2階部の雨戸の壁以外、全面開口なのが特徴。
越屋根は「温暖育」のための換気孔と思われます。
当地域最古の「本棟造民家」は寛政2年(1,790年)建築のM邸であり、
天保11年(1,840年)移築のNy邸、19C前期建築(推定)Mh邸、
My邸と引き継がれています。
特徴的なのは全ての「本棟造民家」が、元歴史研研究員・
金沢博士の定義による
「前期型」である事です。
縦横3列格子モジュール形式の中央に
おえを配た形態が、
養蚕業の盛業に伴い小屋裏も活用するため
吹き抜け部に
床が張られました。

M邸の前でスナップ写真
環境省の「地球温暖化防止キャンペーン」のPRとして
全国五紙の一面に掲載された
大変由緒正しき名家です。
赤レンガの煙突と共に、
地域のシンボル的な住まいとして
愛されてきました。
これらの「本棟造民家」の
3割が移築であり、
建築時の山林の状況、建築資材の希少性を
垣間みる事が出来ます。
また地域の方々は「本棟造民家」に対し、大変強い想い入れを
抱いています。
母屋の屋根形態は「本棟造」の特徴である
切妻・大屋根を維持しつつ
平面計画は現代に適応、長屋は
「柿加工場」へと特化した
「昭和の本棟造民家」としての住まいも
数棟建築されています。

母屋は「本棟造」の形態、長屋は「柿加工場」の
「昭和の本棟造民家」として継承されています。
1.5km程の散策も後半にさしかかると参加者の皆さん
「あの大きな屋根は切り妻」「切り妻屋根は本棟造」「2階建ての蚕の建物」などと
口走るようになり
、興味深々の雰囲気でした。
その後、山法師の「風の舎」に集合しP・POINTにて
解説ぶってみました。
現実は今回調査した11棟の民家でも、現時点で4棟が後継者がいないのが現況です。
全国の空き家数が1,000万棟に近づく現在、この様な
希少な民家を住み継ぐ為にも
地域の
地場産業の振興、地域力の強化が早急に望まれます。
生産性もよく居住条件に恵まれたこの様な地域でも、都心部に
後継者が
吸い取られてしまうんです。
子供の育児環境の悪い都心部では、出生率が上がるわけでも
なく、少子化はどんどん進む訳ですね。
sono